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mcsgsym:

女ってやっぱエロいよね…と思う画像 - お宝エログ幕府

燃費が10 km/L の自動車で 4.7 km 先のスーパーまで1回だけ買い物に行くと、年間に使用するレジ袋製造時に排出されるのと同じ量の二酸化炭素が排出されることになります。
1年間がんばってエコバッグを使って買い物したとしても、5キロ足らずの距離のスーパーへ1回行くだけでその努力はチャラになります。

近くのスーパーへ徒歩か自転車で買い物に行くだけで、エコバッグ運動による二酸化炭素排出の削減量はあっという間に達成可能です。

地球温暖化とエコバッグと道路特定財源の暫定税率の延長(その2) やさしいバイオテクノロジー/ウェブリブログ (via nakano) (via hexe)

エコバッグ使って地球にやさしいつもりになってるひとたちに読ませたい。公共交通機関の発達した大都市圏ならともかく、地方ではマイカーなしで暮していくのはほとんど困難だから、いかにクルマを使う頻度を減らすかが問題なんだよな。これはエコバッグの導入よりも、よっぽど難しい。

(via harunoriyukamu)

まだある。例えば,新車を製造するのに必要なエネルギーは、その自動車をおよそ5万km走らせるのに必要なガソリンと等しいらしい。あるいは,電気そのものは二酸化炭素を排出しないかもしれないが,電気を生成する過程で莫大な二酸化炭素放出やそれ以外の環境負荷がかかる。「エコ」のつもりが,実は外部にそれ以上の環境負荷を与えているというのはありがちな構図だ。産業革命以来,私たち,特に先進国と呼ばれている地域に住んでいる私たちは,リスクを外部化することに慣れすぎて,それを含めたトータルなリスク勘定ができなくなっている。それは反対側から見ればあまりにも無邪気な搾取構造なのである。

(via hexe)

宇沢弘文の「自動車の社会的費用」の話、かな。

(via pdl2h)

べんきょうになります。うっちーのクルマの社会的コストの岩波新書は、うまなりさんとこに目次と一部抜粋があったよ。

(via harunoriyukamu) (via kml)

「エコバッグ使って地球にやさしいつもりになってるひとたち」って揶揄は不要だと思った。

(via nakano) (via jahumming) (via retlet) (via miyavi) (via dannnao)

自分が自動車に乗るとか乗らないとかは、国内の物流が自動車に支えられてることと比較してどうでもいいような数字じゃないのかなー。長野から運ばれてきた野菜を買うのに、歩いていこうが自動車で行こうが変わんなくないのかな(うらづけなし)。二酸化炭素排出量の80%は産業セクターからで、それは普段の生活スタイル自体が80%のエネルギーを消費してるってことで、自動車使うとか使わないとか、個人で変えられる部分は20%しかなくて(オフィスの空調とかは個人で変えやすいからもっとほんとは大きいけど)、エコバッグも自動車もアルゴリズム変えるの大変だから最適化してごまかすみたいなかんじだ。何の提案もないけど。

元の議論からそれるけど、トータルに考えるのが難しい、だからみんなてきとうに好きなことすればいいよ、っていう市場原理がそこそこうまく機能するんだから、みんなてきとうに好き勝手にエコっぽいことしてもいいんじゃないの。(以下くりかえし)フェアトレードで原油燃やして海外から高いもの買うのと、地産地消で地元のまずそうなコーヒーに高いカネ払うのとどっちがいいのかとか、イラク戦争反対とかいうのを(アメリカの会社である)IntelのCPUで動いてる(アメリカの会社であるMSの製品の)Windowsのコンピュータで、(アメリカの軍事研究機関の)DARPAの研究成果のインターネットで主張するのとか、バイオエタノール使ったら穀物価格が上がってカネ持ちの道楽のせいで貧乏人の家計を圧迫したりとか(で、結果として人口が減って環境が改善されるのだったら、なんと皮肉ですばらしい環境対策だとも思う)、トータルでどうなのかなんて、すごく複雑でわかんないから、ファッションとして消費するのは正しいとも思う。

(via ku) (via tra249) (via motomocomo)
普通の人はくすぐったい箇所が何箇所かあるものです。ところが自分でくすぐっても何も感じません。自分でくすぐるときは動きから脳がくすぐりを予測することができ、それが反応をキャンセルしてしまうらしいです。
maido3:

究極の画像 | 潤雅の『なのに』
小さい女の子がおじいさんにアンパンマンのぬいぐるみ指差しながら「うんぱんまん!」って言っておじいちゃんが「そうか…運ぶのか」って言って笑いそうになったけどその後カレーパンマンのぬいぐるみ指差して「キャリーパンマン!」って言っておじいさんが「こいつも…運ぶのか」って言って笑った
butaou:

右手が勝手に保存していたネタ画像 99|DS PSP初心者用講座
japanesedream:

橫須賀, Yokosuka (by 黃毛)

japanesedream:

橫須賀, Yokosuka (by 黃毛)

自分の悪いところに気付かせてくれるのはいつだって他人、そして良いところを教えてくれるのもまた他人。人と関わらずに自分を知ることなんて出来ない。

一つは、親自身が自己信頼を持つことです。
罪悪感に飲み込まれたり周りを責めたりすることなく、周囲の大人と誠実で対等な関係を築く力をつけること。親が子どもにあたってしまうときは、自分に余裕がなかったり、自信をなくしていたり、仕事や家事で疲れていたりする場合がほとんどです。「子どもが○○だから言わなくちゃ」の前に、「自分は何を感じ、何に腹を立てているのか」「本当の問題はどこにあり、向き合うべき相手は誰なのか」を考えて、自分自身と正直に向き合って考えることが先です。その上で、「自分はベストを尽くして精一杯やっている」ということを忘れることなく、自信と誇りをもって子育てにかかわってほしいということです。

もう一つは、パートナーや友人など周りの人に、子育てを一人で抱え込むことなく、上手に助けを求めて協力体制を作ることにアサーティブの理論とスキルを使えるようになることです。相手を責めることなく自分が卑屈になることもなく、率直に、誠実に、そして対等に自分の求めることを言葉にしていくこと。これはまさに日々の実践で練習できることですね。

「勇気がないから行動できない」のではなく、「行動すると勇気が出る」し、「他人の目が気になるから、言いたいことが言えない」のではなく、「言いたいことを言うと、他人の目が気にならなくなる」のです。これは、自転車とそのランプの関係にとてもよく似ています。
 ほんとは、現職にいる時、うちの社員と名のつく人に全部あって握手してやりたか
った。社長を辞めて、やっとその念願を果たすことができた。
 日本国内で700ヶ所、回るのに1年半かかったよ。それから海外の駐在員のとこ
ろを飛行機で回った。それも半年かかったもんだ。

 うちの社員でありながら、オレの顔を見たことがないのが大勢いるんだ。ことに地方
の出張所や、SFというサービス機関の社員とかね。
 一人ひとり手を握ったんだ。オレは涙が出た。むこうの若い連中も泣いたよ。

 けど、オレは士気を鼓舞するなんて気じゃない。自分が嬉しいからや
るんだ。オレは社長を辞めて、やっと人間らしいものにいきあったよ。

yuramaro:

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止血法の実際
 
 日常生活でよく経験する程度の出血は、だいたいが圧迫包帯ですみますが、けがの場所によって止血法が違ってくることはいうまでもありません。

 指からの出血
 傷口にガーゼを当て、その上を反対の指で圧迫します。出血はやがて止まりますから、落ち着いて、包帯を巻きます。

 手からの出血
 手のひらには、血管が多く走っていますので、深く切ると出血はかなり多量になることがありますが驚くにはあたりません。これもガーゼを当て、じゅうぶんに圧迫し包帯を巻けばよいのです。

 前腕からの出血
 これもふつうの圧迫包帯でよいでしょう。止血帯の必要なときは、前腕でやらず、わきの下の少し下がったところの腕の内側の脈どころ、上腕部の液窩動脈に行います。指圧でとめるときも、同じ部位を圧迫します。

 上腕からの出血
 上腕の場合も、まず圧迫包帯をしますが、指圧止血あるいは止血帯を施すときは、前腕の場合と同じで上腕の液窩動脈の部位に行います。指圧のときは、骨に向かってしっかりと指圧します。

 大腿部からの出血
 圧迫包帯をするとともに、股動脈を指で強く圧迫します。また同時に、座布団や毛布を高く積んだ上に下肢を乗せて、静かに休ませます。

 足からの出血
 足の裏を切ったときなど、どくどくと血が出ることがありますが、やはりガーゼを当てて圧迫包帯をします。足指からの出血も同じです。指の側面に傷があるときは、指の間にガーゼを入れてから包帯をします。

 腹や胸からの出血
 厚めのガーゼを傷口に当てて、三角巾で圧迫します。

 頸部からの出血
 頸部からの出血は急激です。このときの止血処置こそ、患者の生命を救うかどうかの大切な瀬戸際になります。落ち着いて、頸動脈を骨(頸骨)の方に向かってしっかり押えます。手じかに何もなければ、手のひらでも何でも良いですから、傷口にしっかりあてて出血を最小限にとどめます。また、包帯をする場合には、呼吸ができる程度の圧迫包帯にとどめる必要があります。

まずしてはいけないのは、子供と対等な目線に立つということだった。子供に目線を合わせようとすることだった。
子供というのは、この世の身も蓋もなさを大人以上によく分かっている。そこにはよりプリミティブな形での上下関係があって、彼らはそれをとても素直に受け入れている。
彼らにとって、人間関係とはまず上か下かのどちらかなのである。人間は平等だなどというややこしい感情はあまりない。だから、自分に目線を合わせようとする人間に対し、子供は警戒心を持つのだ。有り体に言うと、胡散臭さを感じる。
中でも取り分け良くないのは、話し方を合わせようとすることだ。よく赤ん坊に「あらぁ、どちたのでちゅかぁ、なにをちてるのかなぁ?」などと気持ち悪い話し方をする人がいるが、そういう人が赤ん坊に好かれているのを見たためしがない。赤ん坊は、まずそういう気持ち悪い話し方をする人を嫌う。赤ん坊は、もっと普通の話し方をする人が好きなのである。そういう気持ち悪い言葉じゃなく、「おいおい、どうしたんだ、何してんだよ?」と普通に話してくれる人の方が、ずっと好感が持てるのだ。
これは赤ん坊だけに当てはまるものではない。小学生だろうが中学生だろうが高校生だろうが、子供は子供の目線に合わせた話し方をする大人を嫌う。もっと普通に、その人が普段話している言葉遣いで話してくれる人の方を好む。それも、対等の立場ではなく、できれば上から目線で話してもらった方が落ち着く。胡散臭くない分、信用できる。
そこにはもちろん、毅然とした態度とか、確固たる自信とか、それを裏打ちする実力とか、経験とか、そういうものも必要だろうが、子供は何より大人には大人でいてほしいのだ。上なら上でちゃんと上であってほしいのである。その方がずっと落ち着くし、良い人間関係を築けるのだ。